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Showing posts from July, 2017

何かを習得するとは

 先日京都に用事があった際、日が落ちてからあるバーに入ったところマスターの横で学生らしき女性が働いていたので話してみると大学に通っているという。  「学校はいつまで?」と尋ねると8月の半ばまでしっかりやっているというのだから少々驚いた。僕の教鞭をとる大学は7月末で夏休みを迎えるし単純計算で4月から15週間の授業をすれば、だいたい7月以内に終わるはずだと頭では思ってしまうのだが、私立と国立ではまた違うのかもしれない。    日本の大学のことを実はよく知らない。自分は京都の高校をなんとか卒業させてもらって(つまり苦手な科目があったが多めに見てもらった感が否めない)、秋口から新学年の始まるアメリカの公立大学に進んだ。だから日本で大学を教えることになって少し苦労したことはというと、学生たちの視点に立てないということだ。何せ彼らの実際のところの感覚というものを経験したことがないから共有できない。また、まぁ知っていても知らなくても問題はないのかもしれないが、実は1ヶ月前くらいまで、授業料のシステムを勘違いしていた。ひとつひとつの講座を受講するたびに授業料を収めるという感覚がアメリカでは一般的だったのだが、日本では年間の授業料が固定というパターンが一般的なようだ。なるほど時々現れない学生というのがいる。込み込みで支払ってもらった学費だと、目の留まった講座を片っ端から登録してあるからその中のひとつに出られない日があったとしても、罪悪感はないに等しいという訳なのだろう。自分の国のものだとはいえ未だにどこか抵抗のあるシステムだ。  そろそろ大学の学期が終わる。  それで僕は学生たちに尋ねてみる;「春先の自分より、今の自分は賢くなったと思うか。できなかったことが、できるようになったか」と。  社会人である我々にしても同じ問いを投げかけることはできる。 「できなかったことが、できるようになったか」と。 ただ、何かができるようになった実感とは実践ののちについてくる感覚であって、使わずにいるままでは実感しようがないことも考えてみれば分かる。  なぜそんなことを今考えているか。日本人が外国語を学ぶ姿に共通する特徴がある気がしているからだ。  食事をしに店に入ったら、若い日本人の男性が年配の女性に何やら元気に英語で話す声が聞こえてきた。  オチから言えば、年配の女性は若...

存在意義などに関して

 吉祥寺でゆったりできて雰囲気の良いカフェを探すことは非常に難しい。 というのもきっと、理由は雰囲気が良いと感じるカフェには自分以外にも大勢の人が集まるせいで、混雑する結果もはやそこは厳密に言えば「雰囲気の良い場所ではなくなってしまうから」だろう。混んでいるところでゆっくりするには繊細な神経を持ち合わせていてはある意味でダメで、そんなこんなでいろいろ考えてしまう人間にはゆっくりできる場所は限定されてしまう。  混むということは、ある客が出てしまっても、すぐにまた他の人が来るということで、高密度高回転であると言える。僕の場合はそんな中にいようものなら、「早く出てあげないと、お店が儲からない」とか、色々考えてしまうからゆったりなどできない。まぁ、店からしても「そんなお客さんは長くいたいと思う別のお客さんにさっさと席を代わってあげて」ということになるのかもしれない。それならば空いているところに行こう、などと思うのが心理だが、空いているところは今度は雰囲気が良くないから人がいないのであって、人のいない雰囲気のそれほどよろしくないところでゆったりしようとしてみても、なんだかそれは少し違う気がする。「いやぁ、難しいね」。そんなことを言いながら妻と家でコーヒーを飲んでいる時間がもしかすると最もゆったりできているのかもしれない。「幸せの青い鳥」ならぬ「くつろげてうまいコーヒー」である。  最近吉祥寺の商店街の中にある古本屋で、田口護さんという「 カフェバッハ 」というコーヒー好きの間ではたいそう有名な南千住の喫茶店を奥さんと共に創業した人の「カフェを100年、続けるために」という著書が目に留まったので買って読んでみると氏の哲学が凝縮されていて大変感銘を受けた。「ヨーロッパでは美術館のそばにはカフェがあって、そこで客たちは今見てきた芸術について論じている」といったような、カフェが人々の生活の中でどのような役割を果たしているのかという見聞もなるほどと思うことがたくさんあったのだが、そこから僕が思うことは実際この国ではカフェはどのような役割を果たしているだろうか、ということだ。まぁそのことについてはまた追々、ここで考えてみたい。 P. S. ちなみに日本のカフェの中で人がしていることのイメージは僕なりに挙げてみるとこうだ; おひとりさま 1 パソコン...

アナログ時代が懐かしい

 とある料亭は平日のせいかそれほど混んではおらず、自分以外客のいないカウンター席に腰を下ろすと板前さんと程よく目線の高さが同じくらいになった。  20代の頃連れて来てくれた人がいて、もはや紹介してくれた人よりも来ているような場所なのだが、店の人たちが最初からよそ者に感じよく接してくれたのも、連れて来てくれた人のお陰である。今ではすっかり世話になっている。その店を包む昔からの和の感じがそこにあることで客は安心するのだろうと思う。  ところがその店に最近一つの変化があった;オーダーを電子化したことだ。  僕自身は注文するものは毎回同じなので、特にメニューも見ないのだが、その代わり板前さんの顔を見て話すことになる。そこのやりとりがしばらくぶりに来てみると、変わってしまったように思えた。板前さんが客から目を伏せる時間が長くなっているのだ。  理由は客の注文を今までのように紙に書き留めるのではなく、携帯端末に打ち込むことになったからだ。オーダーを電子端末から厨房に送るないしは注文を記録するという作業が従来の手書きのスピードを大きく下回っている。パパッとできたことが今では倍、もしくは3倍の時間を必要とすることになってしまったようだ。それでほんの数秒の話なのだが、以前から来ている客にすれば、接客が変わったように感じてしまうのだ。板前さんが自分の前でうつむいているだけのように見える時間がなんとも長く感じられた。  思えば職人さんたちの手さばきが間近で見られるカウンター席は若かりし頃の自分にとって、学び多き場所だった。何がお店の良さである独特の空気を作り出しているのか、そんな問いの答えのほとんどは目の前の板前さんの仕事の中にあったのだ。しかし電子化の波はあらゆるところに押し寄せては今までのあり方を飲み込んで行く。自分の気に入っていた昔ながらの職人の仕事の魔法が、端末をいじる瞬間にたちまち消えてしまう。  アナログ時代が懐かしい。紙と鉛筆の時代が懐かしい。紙と鉛筆で十分だと思っていたアナログな人間たちの存在が、今ではもはや懐かしい。  果たしてあらゆるものが電子化して行くことが本当にありがたいのだろうか。鉛筆や紙切れを懐かしむ時代が特別優れているわけでもない気がするが。