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Showing posts from November, 2017

無関心さについて

 他人と自分のつながりとはなんだろう?  僕は時々そんなことを考える。都会に住んでいるせいもあってそんなことに関して考える機会も多い。  僕を知る人は知っていることがある。浅草に事務所を一時的に移した時期があるのだが、向かいに住んでいた若い女性が自殺してしまった。しかし彼女は随分と長い間発見されることなく、ついに家賃が引き落とされなくなってしまって不動産屋が訪ねて来て、家族を含めた誰もがようやくとうの昔に彼女がこの世を去っていたことを知ったという。自分を含めて誰一人気づかなかったこともあってその出来事は随分とショックだった。追い討ちをかけるように、その部屋のクリーニングが済むと、その部屋にはすぐに新しい入居者が引っ越して来た。以来、隣があることに少し抵抗がある。故に、一階丸ごとを借りられる物件に移り住んだ。時々そのことを思い出して考える。都会とはなんと無関心な場所なのだろうかと。  今日電車に乗っていると少し自分から離れたところで中年の男性がメガネケースを落とした。メガネケースは転がり座席に座っている乗客たちの足元をしばらく転がっていったが、誰一人目をやりもしない。皆それぞれがそれぞれのことをしていて、転がるメガネケースを止めるでもなく、拾うでもなく、ただただ、それは他人事なのだ。  一つだけ、今より若い頃考えていたことがある。電車の中で例えば独身の男性が魅力的な女性を見つけたとする。しかし電車の中には一般的にはその人に話しかける動機がない。故にその人に話しかけるとしたら話しかけられた方は警戒するだろう。  しかし仮にその彼女がその電車を降りて料理教室に向かったとする。そして偶然にもその独身男性も同じ料理教室に向かう途中で、教室に着いたら調理台のグループ分けで隣同士になった。そうするとそこで話しかけることは何の問題もない。趣味を聞き、仕事について尋ね、コーヒーに誘うことだって問題ないだろう。人は限りなく限定的な状況にない限り他人と言葉を交わすこと、関わり合うこと、そういったことができない。オープンな場所(電車)では十分条件の存在に思いがいかないのである。この二人は同一人物だというのに。

下町の人と人との付き合い

 仕事で最近上野にいる。  「下町の人情」など言ったりするが上野は同じく台東区の浅草や、隣の墨田区などと同じく、下町である。  話を進める前に、ご存知の方も多いだろうが、念のため。何があれば江戸の「下町」と言うのか、ここは明らかにしておく必要があろう。下町とはまず文字通り低地であることがその呼称の由来に当たると言われている(↔︎ 山の手)。そして二つ目の要素として町工場が多く、そのほかにも様々な商店がたくさんあること。そうなるとそういった町は昔、東京においては前述した浅草や墨田区だったということになるからあのエリアを下町と呼ぶ。 話を戻すとそんなわけでお昼になると食事に出かける。上野を歩く。そうしているうちに二件ほど好きなお店ができた。そのうちの一件のレストランのテラスに座っていると向かいになんだか神社などにあるような大きな階段のあるビルがある。そしてその幅広な階段が両端から鎖で結ばれており「本日休業」と札が揺れていた。  後になって知ったところではずっとそこにその札はかかっていたらしいのだが、気になったのでお店の女性に聞いてみるとその土地は元から銭湯を営む人が持っているものらしく、マンションに建て替えた後も大きな階段を作り、その階を銭湯にしていたらしいのだが最近ではその界隈でも皆が風呂付きの部屋を借りるから閉業したとのことである。    しかしその「最近は風呂のついた部屋に暮らしている」という言い方が気になったので詳しく聞いてみると、下町にはもともとお風呂のない家が多かったらしく、新しく建て替えてもなお敢(あ)えて風呂を作らない人たちがいるらしい。生まれた時から何せ風呂が当たり前のようにあったせいでそう聞かされると驚いたのだが、「敢えてお風呂は作らず、その土地のお風呂屋さんと付き合いをしていく」というのは少し前の時代までは下町の近所付き合いの形だったようだ。今でも下町の木造の家には風呂無しが多いらしく、またそういった文化の名残でマンションの貸し部屋も風呂無しというものが多く残っているらしい。そうすることで少し家賃を安くしてあげることもできるとのことだ。  個人的には一度墨田区のスカイツリーの近くで銭湯を体験してみたことがあるが、わざわざ体験しているにもかかわらず銭湯は少し割高な気がした記憶がある。コインランドリーなんかも同じく、洗濯...