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神宮前

「最後の更新は1月じゃないですか」仕事で関わるある男性に言われた。  どこかにきっと書いたはずだが、このブログを始めた当初、妻は武蔵境にある研究室におり、しばしば帰りが遅かった。そこで帰宅するまでに何かしら書き綴れば道中妻も退屈することはなかろうと思いなんとなく始めたのがこの新聞である。    言語という表現方法において人間の頭の中というのは物理的な制約がない。 しかしこれが例えば帰宅する妻のためにローストチキンでも作るか、となれば、それは材料を入手するところから始めなければいけない。昔リチャードブランソンが言っていたが、「美味しい野ウサギのパイの作り方の手順:①まずウサギを捕まえてくる ②次にそのウサギを・・・」である。だから後者は選ばず、料理を作る代わりに文章を作って帰りを待った。結果的に夕飯はずいぶんと遅くなることが常であったが、喜んでくれていたような気がする。  今でもこれまで書き綴ってきた内容のようなことはしばしば考える。その都度題材にしてきたのはどれも日々眼に映る外の世界の光景である。主体的に何か自らがこのようなことをしたということではなく、日々をみなさんと同じように生きる中で感じたこと、合間合間の暇の中で、考えたことなどについてだ。  これからもそれらをできる限り文章にしていきたい。どうやら光栄なことに、妻以外にも興味を持ってくれている人がいないわけではないらしいから。
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読書の新年と本棚問題

 今年の正月は読書で過ごした。  年末のことになるが一年ぶりにある教え子が留学先から一時帰国してうちにやってきた際、我が家の本棚が一段増えていることに気がついたようだが、実はこの学生は昔からうちの本棚が定期的に一段ずつ増設されていく過程を見てきた妻以外の貴重な人物でもある。腰の高さくらいの時代から、年々順調に増設を重ねていき、今ではあと一段の増設で我が家の本棚は文字どおり天(というか天井)に届くまでとなった。  しかしその増設の歩みが順調かというと、当のそれらの蔵書の持ち主の私(と妻)はややペースが落ちていることに近年悶々としていなくもない。我が家の本棚増設にとっての最大の敵はamazonのKindleである。この電子書籍なるものはいくら買ってもタブレットやスマートフォンの中に収まってしまい、一向に本棚にボリュームが反映されない。もちろん本の本質は中身にあるが、本がお好きな方ならある程度賛同いただけると思うけれど、本は本棚に収まってくれることも役割の一つというか、良さの一つであろう。本棚はそこに並ぶ本と共に成長していく。間が悪いことに我が家の他の事情としては昨年仕事場に現れた全長12m強に及ぶ巨大な本棚にも自らのルールに則った仕分けによる本の流出(?)があり、そのうえ電子書籍にも多くの良書を取られてしまうため、我が家の背の伸びる本棚は伸び悩む時代に突入を余儀なくされてしまった。                                             photo from getty images  便利な必要悪Kindle。そんな電子書籍を始めて早3年ほど経つのだが、3年ほどの時間が流れると自ずと書物の購入にあたり、ある種の棲み分けが自然に生まれていることも確かだ。実は改めて自分の電子書籍にはどういった種類の本があるだろうかと考えてみると一つの発見があった;  それは好きな本をいつでも読み返せるようにという目的のためデジタル版で追加購入されたものや手に入るのに時間がかかる洋書系、夏目漱石...

戌(イヌ)年が終わる

 新聞を読み始めたのは中学生の頃だったか。 皮肉なことに、今はほとんど読まない。これは残念ながら仕事上、あまり紙面に登場する情報が関係なくなってしまったことと関係がある。だから世間のことに疎いかというと、国際情勢も含めて、必ず誰か教えてきてくれる者がいる。それが幸いしてまぁ極端に無知ということもない。  小学生の頃、ニュースにはあまり興味がなかったが学級新聞なるものに4コマ漫画を連載していた。4コマ目にオチがきて終わり。最後にクスッと読んだ生徒が笑えばそれでいいという至ってシンプルなものである。妻と私は小学生からの友人なのでその当時の漫画について未だに話そうと思えば話すことができる。連載していたことは覚えてくれているようだ。記憶から抜け落ちていたのは妻本人も私の真似して漫画を描いては時々同じ紙面に登場していたらしいということである。あいにくこちらにその記憶はない。  中学の一年の時だったか、校内新聞に生徒会長を務めた上級生が一年間を振り返って寄稿したもので、自分の推進した校則を生徒たちがあまり守ってくれなかったので自らも遂にそれらを破り始めたという趣旨の記事が載っていたのを自分の教室の机で読んだ記憶がある。その時は、大勢の人間に決まりごとに則ってもらうことはさぞかし大変で、この人も複雑な心境を抱いた末にどうでもよくなってしまったのかなと同情した。  仕事場の窓から外を眺めると大晦日に犬の散歩をしている人たちが眼に映る。 それで先述したようなことを思い出していた。つまり、犬にとっては今日が大晦日であることなんて、当時私の通った中学で、生徒会長が一生懸命こうしましょうと訴えたことがピンとこなかった生徒たちと同様に、関係がないのだろう。犬にはカレンダーの概念がないわけで、したがって今日くらいのんびり家にいましょうか、という気持ちにはならない。だから飼い主は世間が大晦日であろうと今日も犬を散歩に連れ出している(と、いう形で仕方なく散歩している人も中にはいるだろう)。「主人もさぞかし面倒だろうに」と申し訳なさげな表情が作れる演技力が犬にあれば、この年の瀬をクスッと笑って最後にできる飼い主も多いだろうけれど、たいていの犬はここから見ている限り、我先に暖かい家の中に突っ走っては中でも いつも通り騒いでやろうという表情を、している。

人を失ったりと

近年、お別れが多い。それだけ大人になって仕事を通して大勢の人と知り合えたからだろう。 寝てる間に逝った人がいる。 個性の強い人だった。 かれこれ3ヶ月ほど前のことだと言う。5月頃は大学の講義ばかりをしていたからかもしれない。こちらは全く知らされていなかった。 先日ふと気になって、「あの人はどうしていますか」と共通の仕事の人に尋ねたら、亡くなったと言うものだからしばし言葉を失った。 「会いに来なかったか」 「いいや、今の今まで知りませんでしたので」 亡くなっていることを知らされるまではその人は生きているも同然とはよく言ったものだ。そうか、あの人はもういないのか。 伝統的日本人的な死生観の絡む話だが、その人が亡くなる前日まで一緒に仕事をしていた人は彼の亡くなった夜、なぜか寝室に吊ってあった洗濯物がハタハタと揺れたなと思ったと言う。 「俺にはきっと、最期のお別れを言いに来たんだ」 きっとそうだろう。                                                     The J.P.Getty Museum 事務所の道向かいに時計屋がある。 そこの店主が夏場、一晩だけ咲く花を電球で夜、照らしている。 「今晩見にこられたら」 そう声をかけてもらったので一晩しか咲かない花を観賞した。葉のふちから蕾(つぼみ)が出て良い香りを周囲に漂わせながら、一晩だけ咲く。多肉植物と言うか、生き物のような花だった。 「すぐに散るのに、どうして咲くんでしょうな」 その店主が独り言のように別れ際に呟いたが、なんとなく、人のようでなくもない。我々人間にとってもまた、百年の時は、一瞬に過ぎないのかもしれないのだから。

時間は操れまいが、流れ方は操れる。

我々は時の流れを本質的にどのように感じたいのだろう? 早いと感じたいのか、遅いと感じたいのか? 明日になって欲しくない −−− と思った人がいるとする。 だからと言って、23:59で世界の時が止まることはない。 ただ、時の流れは自分の中に存在する。 「おはよう」とお昼頃に言う人がいる。起きてまもなければその人にとってはまだ一日が始まったばかり。時計の針とは関係ない。 少し話は脱線するが、私は大学のメディア学科にいるためか、学生たちに17時から始まる授業で「おはようございます」と言われることがある。おそらくこれは前述のそれとはまた別物であろう。アッチの方である (小林賢太郎氏の著書「 僕がコントや演劇のために考えていること 」"ちなみに僕たちが夜でも「おはようございます」と言うのは「お早い入りで」と言う意味です。(P.120)")。 それで話を戻して冒頭の問いだ; 私たちは、時間がどのように進むことを欲しているのだろう? 時間はしばし、「相対 (的 / 性)」という表現をされることがある。 相対性理論、と一般的に言われるものも、アインシュタイン自身 「1分 --- 。熱された鉄の上に腰掛ける時と、魅力的な異性と話す時では感じる長さが違ってくる」と解説をつけた。 つまり楽しければあっという間に時間は過ぎ、辛い中では時間の流れはゆっくりに感じると。 photo by gettyimages 皆さんも少しご自身の人生の中での時間の流れを考えてみてくださったら嬉しい。 私は働き始めてからというもの、かなり急き立てられる業種にいるせいで退屈はないが、時間の流れは早すぎると思ってきた。それとも体質なのか、先に話した授業だけでも例にとってみれば、やはり仮に17時に始まって、18時半に終わらなければいけないとどこかで考えていると1時間半は手のひらの砂が指の間をこぼれ落ちるかのごとくどこかへ行ってしまう。 そんなように今も感じる。 けれど近年は少しばかり(なぜか)そんな体感をもったいなく感じ始めたこともあり、実は意図的に時間の流れ方を「中和」させる努力をしている。 それは、ある待ち遠しいことと、何かしら焦らされる要素の両方を予定として同時に持っておくということである。 例えば待ち遠...

帰省に関して

「帰省」の本来の意味は「親の安否を確認する」であるという。 だから森鴎外は「帰省の正しい使い方は『親を帰省する』だ」と、言ったらしい。  とはいえ、そこは残念ながら自分で鴎外(1862~1922)の書いた記事を読んだわけではない。東大名誉教授の養老孟司先生が辞書と日本語に関するお話の中で教えてくれた。もっとも、鴎外が声を上げなければいけなかったのは、その当時から既に帰省という言葉を人々が「里帰り」という意味で使い始めていたからに他ならない。 それでも一応、帰省という言葉の成り立ちについて調べると、唐の時代の漢語に由来していることがわかる。各地方に飛ばされた役人が休暇をもらい、故郷へ帰って父母の顔を見る。それを元来、帰省といった。 日本人にとってお盆の時期は帰省する一つの機会である。 あまりにも一斉に大勢の人が都市部(主に東京)から地方へ戻るものだから東京駅や高速道路は毎回大混雑に見舞われる。下りが混む、というやつで、車は動かない、新幹線は立ち乗り。これは帰省ラッシュという言葉になっている。その混雑の中に実は私も毎年混ざっている。東京都在住の滋賀県出身だからである。 「東京に東京人はいなかった」 誰かが関西から転勤して、感想をそのように述べた。 お盆の中、同僚が皆里帰りする会社に勤めていればそう見えたのだろう。 幸いというべきか、私の住まいの周辺は先祖の代から東京在住、という人たちも多い。 だから東京で初めて見たのだが、お盆の「迎え火」という風習に則って7月13日に玄関で火をたく家を見ることができる(ちなみに東京のお盆は全国で一般的な8月13日〜16日に1ヶ月先立って7月に訪れる)。精霊が道に迷わずに無事家まで帰ってこれるようにという理由だそうだ。 写真:gooニュース 都市部出身の家族の中ではもう長らく地方のそれとはお盆のあり方も違うのだろうが、お盆とは日本人にとって何であろうか。 私はそんな疑問に大人になってから答えが見つかった。お盆とは、墓、寺、おじいちゃん・おばあちゃんのことだった。 墓とは先祖、寺は地域、祖父母は家族親類との関わり、付き合いである。 滞りなくいつもやって来ては過ぎるお盆だが、心配に思うことがないわけではない。 前述の三拍子を今の日本人は30年先も維持できるのだろうか。 都市部...

夢は誰が作っているのか

 単純な話、寝ていたら昨日夢を見た。 しかしその夢が普段の夢と少し違う種類に感じられたため、その話に少し触れようと思う。 海辺の街で何かしらの厄介なトラブルから自分が身を隠しているところからその夢はスタートした。 イギリスに見られるような曇り空の下には鎌倉のような海があり、自分はいくつかの荷物(小さなスーツケースまで持っていた)を持っているにもかかわらず、5階建くらいの建物の屋上に建物から脚を投げ出すような格好で座っているのだが、屋上だと思っていたその場所が実際は5階にある部屋のベランダ部分であったことに気づき、(追われているからか何かしらの理由で)そのベランダから鍵のかかっていなかったベッドルームにお邪魔してそこで荷物の整理をし始めたのだが、すぐ隣の部屋からは掃除機の音が聞こえてくるので、住人がいることはわかる。そしてやがて掃除機の音が止み、住人はこちらの部屋にやってきてしまう。これでは不法侵入になってしまうではないか。怪しまれても困るので冷静に振舞おう。そう努めて鉢合わせになった女性に挨拶をした。  女性はキョトンとした顔を(当然そんなところに私がいるのは理解できないだろう)一瞬見せたが、向こうもこういった状況での最善は冷静さを失わないことだと感じたのか、挨拶をしかえしてきたのだが、今日書きたかったのは、そこからである; 「こんにちは」と言ったその掃除機を持った女性の傍(わき)からせいぜい4、5歳ほどの子供が男の子と女の子二人、なんだろうと思ったような表情でこちらを覗くためにひょこっと顔を出した。 そこまできたところで頭は眠りから起き始めたのか、この子供達の母との会話はまだしばらく続くのだが、一方で思考のコントロールを一部自分が夢を見ながらも取り戻した。(きっとこれを読んでくださっている方の中にも夢を見ながら意識はあった、という体験をしたことのある人はいらっしゃるだろう。) その時私が回復する意識を使って考えていたことはこうである; 「一体誰が(何が/どこが)この話の展開を作り出しているのだろう??」 まず夢の中に ①追われている(?) ②身を隠す場所を発見する というところまでは夢という世界が用意する土台としては言ってみればありがちな話だと言えるが、(と、夢を見ながら考えているのである)...