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Showing posts from September, 2017

バイバイという概念

 子供が親に抱っこされながらこちらに手を振って来る。 それで考えたことがある; あれは、日本語の仕草なのか、輸入されたジェスチャーなのか。 もっと言えば、日本人はいつから手を振るようになったのだろうか。 例えば平安時代、日本人は手を振っていたのか。  残念なことに僕が気になってから探してみた限りでは、日本人がいつから手を振るようになったのかはわからなかった。今もわからないままだ。 しかし世界規模で考えると、「手を振る」というジェスチャーに関する記録は18世紀ごろからあるという。元々は軍隊において兵隊の敬礼の役割を果たし、手のひらを見せるということが武器を隠していないという意味であったという話 (握手の起源も軍隊ではないがこれと同じだということは有名かもしれない)。またはハンカチを振って賞賛を浴びせるというジェスチャーが一般的だった頃、ハンカチを持ち合わせていなかった人がハンカチの代わりに手を振ったことから手を振り始めたという話など、世界史の中で見ると色々あるようだ。僕なんかは大学がアメリカだが、手の振り方にいくつもの種類があるということを芸術の授業の中で一つずつ習った。  そして我々を含め多くの国の文化の中で使われている挨拶としての手を振る行為は、元々西洋の耳が聴こえない人たちの挨拶だったといわれている。それがどうやらジェスチャーとして後に民衆全般に定着したということらしい。    皆さんは手を振っているだろうか。  個人的な話だが、僕は手を振らない。今までも手をパッと顔の高さあたりまであげるくらいはしてきたし、もしかしたらそれは今日も誰かにしたかもしれないが、横には振らないと決めている。なんとなく僕はそれは輸入された外国の文化のマネだと思ってきたので(実際は横に振るのはどちらかというと日本バージョンで、欧米では手を握って開くジェスチャーを繰り返して挨拶をする方が一般的だったりするわけだが)プラプラさせるのには今でも抵抗がある。その仕草をするのはどちらかというと何かを遠慮する時や否定する時「結構です、お金などいりませんから」、「いいえ、滅相もございません」みたいな時くらいか(滅多にない)。     ちなみに最後になるが、誰かに手を振るという行為を拒否している人間は他の文化に行けば大勢いる。例えばフィリピンでは人...

変な日本語

誰かが教えるからそうなるのか、 店員がみんなそう言っているしということなのか、 少し変わった日本語が外食業界に蔓延(?)しているように思えてならない。 皆さんだって店で一度は聞いたことがあるはずだ。 「空いたお皿をお下げしちゃっても大丈夫ですか」 と言うセリフを。 空いた皿は役目を終えている。 大丈夫か、と心配される以前に、役目を終えたものに用はない。 だからそこは別に客に気を使ってもらわなくても全く問題がないはずである。 「お下げしちゃっても大丈夫ですか」には 「それともまだ視界に入っていて欲しいですか」という不思議な質問が含まれている。 誰もそんなことを願っていないということくらい想像がつくだろう。 また、カフェなんかにいると「恐れ入ります。テーブルを拭かせていただいてよろしいですか」と来る。(=「あなたはテーブルの上が汚れている状態をただただ受け入れていらっしゃいますが、店側の私には我慢できません、綺麗にさせてください」(?)) いずれもそう聞かれたら客の方は 「はい」とか「お願いします」と答えないといけない。 返事を要求するというのは相手のエネルギーを消費させる行為だ。 だからどこかで倒れて救急車なんかがきた時は決まってその患者に 「わかりますか」「お名前を言えますか」と聞くわけだ。その時は要するに患者の意識がエネルギーを消費するという手段を取れるか確認している。これは大学の授業の中でも何度か説明したことがある。 正解は、−−正解というか個人的に思うあるべき姿は−− 客から「ありがとう」という言葉が出るだけで済むような言葉をかけるように心がけることだろう。その「ありがとう」が出るか出ないかはもはや客のモラルの問題であって、自分自身は自分の仕事(皿を下げる)を美しく素早く完遂することができる。 昨今は医療の世界もいろいろと説明をして患者や家族からサインをもらわないと治療を進められなかったりすると聞く。いたるところで横文字の「コンセンサス」、「アカウンタビリティ」という言葉も見かける。世の中が「お伺い」に気を使わないといけないという風潮を加速させているが、空いた皿やグラス、テーブルに至っては「あなたにお任せで」と客も店に身を委ねていたいものだ。 時々ホテルで食事をする機会がこれまであったが、最近は...

魚釣りチャンネル

昔、バス釣り人たちは魚がかかった時「フィッシュ!」と叫んで竿をしゃくり上げていたが、子どもながらに学校で勉強を進めていくにつれ、「さかな!(fish)」と言っているだけなんじゃないかという疑問が浮かんできた。 アマゾンは有料の翌日配達に年会費を収めるとアマゾンプライムという特典でたくさんのビデオを観ることができることはご存知の方も多いだろう。その中に釣りのチャンネルもしっかりあって、エピソードの一覧を見ているとバス釣りに関する回が1シーズンに5つほどあるようだったので観てみたわけなのだが、やはり「よし、喰った!」とか「きた!」とかというセリフに混じって「フィッシュ!」というセリフは今も使われているようだ。 それで前述したようなその言葉の意味性について久しぶりに思いを巡らせるに到り、アメリカのバス釣り番組も気になって観てみたのだが、「Fish!」と言っている出演者は今のところまだ見つけられていない。

屋内活動

 夏は随分と忙しかったが、秋口に入り余暇が増えた。 主に人と会ったり、人がやって来てくれたり、そうでなければ本や映画に触れながら日々を過ごしている。買い足す必要のあるようなものを揃えに車で出かけることも増えたかもしれない。  静かな事務所に一人でいると一夏の忙しさに耐えた事務所の机の上にあった書類の山は消え、無駄に多い可能性があるいくつもの椅子の上には何もなく、夏の間は全て外で済ませていたコーヒー紅茶、アルコール類も、事務所の棚を見ると常備されたそれらに最近は人がちゃんと手をつけている様子がうかがえるようになった。  もう随分と昔になるが、東京の勝どきにマンションを持っていた仕事関係の人が花火大会の時声をかけてくれ、お邪魔した際お掃除コンサルタントの女性と話す機会があった。 空間を綺麗に保つ基本中の基本は、取り出したものを用が済んだらすぐ元の場所に戻すことらしい。放ったらかしはダメなようだ。知ってはいるものの、できないことはある。が、一度やり始めると、しばらくは続けられそうな気がする。そんな想いで、最近はこまめに本棚に本を返し、定規をケースに戻し、万年筆のインクカードリッジをゴミ箱に捨てている。

解さぬもの

日曜の昼下がり、ポソっとポストに十月のネットテレビの番組表が投函された。毎月のことである(そしてうちにTVがないという話をつい先日書き綴った)。 手に取ると「これから旬な俳優」といった趣旨の特集があった。旬を予言された俳優たちを見る。・・・しかしこれが解らない。 だが人間というのは必ず根拠があって何かを言うわけなので、その特集を担当している人間はみんなでしっかりとこれから旬になるであろう人間を吟味して、そういう期待をかけるに相応しい人間が特集に登場するわけだ。  読者の方は一方的にそういった冊子が家にいて届くので、あくまでそのような主張に対して受け身であるわけだから好きなように感想を持つことができる;しかし「こんなヤツが旬になるわけないだろう」という感想を持つ必要はないなと今日は思った。そう思う根本的な理由は先に述べたように「誰かがそう言うには根拠があるのだろう」ということ。僕は全くといっていいほどTVドラマを見ないので、グラビアに現れる彼らをそこからだけで判断することはフェアではない。その人間のその日の写真映りだってあるだろう。彼らは面白いキャラクターを日頃演じていて、大勢を楽しませている可能性がある。それがただ僕の知識の外で起こっているに過ぎないと言えなくもないということだ。    もう一つの理由は、人間には解さぬものがあるということである。  エチオピアに行けば、今でも「リッププレート」と呼ばれる円盤を裂いた唇でぶら下げるムルシ族の女性たちがいる。彼女たちの美的感覚からいうとリッププレートと呼ばれるものは大きければ大きいほど良いと考えられているようだ。しかしこれは日本人の感覚から言えばさすがに真似できる代物ではないだろう。同じ理屈で現在の日本のエンターテイメントの世界が「容姿端麗=中性的外見」という価値観を持っていることはムルシ族がエチオピアにてそのような価値観を持っているということと本質的には変わりはない。だからリッププレートの女性美を日本人女性が解さないことと、中性的外見が男性のルックスの良さということになるという感覚を僕が解さないことはまた本質的に同じことだ。 そう思えば世の中のほとんどのものは個人的な反対意見をわざわざ述べなくてもやり過ごせる。リッププレートを施した女性に「私はそれは美しいとは思わない」と蚊帳の外からいう必要がないこ...

携えてゆけるもの

 うちにTVはない。  一時サッカーのワールドカップなんかがあって、自分もそれなりに日本を応援しようと思ってTVを入れたが大会が終わると特に見るものもなくなってしまい、必要の無くなったものは自然淘汰され家から消えていった。  大学のカフェテリアにしょっちゅう付けっ放しのTVがあって、外国のニュースが流れている。自分の話だが子供の頃、アンソニーホプキンスとブラッドピットの「ジョーブラック に よろしく(邦題は「に」だったか「を」だったか忘れたが "Meet Joe Black"のこと)」という映画を観ていたらホプキンス演じるビル・パリッシュの社長室に6つくらいテレビが壁に掛かってあって、それが無音でついていた。それで大人になったら自分も6台くらいのTVを壁にかけて一斉にミュートで流しその前に突っ立って世界中の情勢を眺めながらコーヒーでも飲もうではないかなんて思ったものだが、大人になって気がつけばTVなんかいらない生活を送っている(あるいはもしかしたら、社会情勢と関係のない暮らしをしているのか)。  昼下がりにコーヒーメーカーで落として淹れたコーヒーをシンクの縁(へり)に何気なく置き、ブラブラと徘徊してからもう一度キッチンに戻ってきた時、そのコーヒーポットの取っ手が縁から飛び出していたのでポットの取っ手をシンクの方へ回し、飛び出さないように置き直した。その時ふと、どこかで以前料理番組がTVでついていて、料理研究家の女性の先生が「フライパンの取っ手は必ず服などが引っかからないように縁より中に入れて置きます」と言っていたことを思い出してそうしているのだと気がついた。  どうということではない。それだけの話なのだがほんの些細な、しかし教わらなくては気がつかないような一言二言が家にいながらTVをつけるだけで自分に届く。そういったずっと携えてゆける知恵をTVを通して他人から得る。本来これは大変ありがたいことではなかったか。   追記:本当はカフェテリアに流れっぱなしの海外のニュース番組を見てると、最近はもう自分と同じか若いくらいの年齢のパネリストが出演していることに気がついた、みたいな話を書こうと思っていたが、少し話は逸れて行ったかもしれない。

コンタクトレンズの消費期限

2週間のコンタクトレンズは2週間と一日経った時点で新しいものと交換するべきとされている。大いに賛成だ。 しかし、医者で処方箋をもらうというプロセスを経て購入に至るのであれば、その医者がいつ何時までやっているかは大変重要な要素となる。つまり大抵の人にとって「私は仕事が終わってから診てもらいに行きたいわけなのだが」という状況で足を運ぶからようやくクリアな視界を手に入れることができるのだが、なぜか僕が贔屓にしている吉祥寺の医者は僕たちが働いている時間と同じ時間帯に仕事をしていて、僕たちと同じ頃仕事を終えている。あなたの患者は平日休みなのか? そんなわけで珍しく2週間を超えてレンズを使う羽目となってしまった。「一度に何箱か買えばいいじゃない」と周囲の人間は言うが、はっきりいってそれは今抱えている問題を12週間後に先延ばししているだけなわけで、その頃になると同じような問題に直面しているだろうことは目に見えている。そうして期間をオーバーして装着せざるを得なくなったレンズを外すと、ある疑問が浮かんでくる; これはつまり昭和50年代に生産された車を大事に大事に壊れないようにメンテナンスしながら乗っているような感じに等しいのか、4日前に淹れたコーヒーを水筒からのむ行為に等しいのか、という疑問だ。 僕自身は気持ち的には前者だと思っているわけだが、顕微鏡を覗き込むような人たちから言わせれば2週間を超えるとそれはもしかして一日ずつ古くなってゆくコーヒーを飲む行為に等しいと根拠を持っているのかもしれない。けれどじゃぁ我々コンタクトレンズユーザーが日々使ってる洗浄液とはどのような効果のあるものなのか?あれは消毒し、殺菌し、レンズを開封した時と同じ清潔な状態に戻すものなはずであろう。あれで毎日淹れたてのコーヒーになるんだ。 実際はわからない。だが今日はメガネにした。世界は特に違っては見えない。

奥から出てきたら怪しいと思う

大きな道路脇にあるチェーン店の回転寿司屋に入った。 週末のこういったお店は3世代で食べにきていたりして見様によっては微笑ましい21世紀型の一家団欒の様子を眺めることができる。ただそこに、板前の姿はない。 「ああいったお店は実は中で握っている職人が最近は外国人だったりするんですよ」 そうよく行く寿司屋の板前さんは言うわけだが、こちらからしたら隠すことでもなかろうにと思わなくもない。別にベルギー人が握っていようがイギリス人が握っていようが文句を言うほどのことはないはずだ。 何事も客に見えていると見えている分しか作ることはできない。見られているとみられているなりにしっかり仕事をしないと格好がつかない。そうなると注文が各テーブルから殺到するのであれば熟練の板前をもう後2人、3人、雇わないといけないしそれでは金がかかる、といった発想から一昔前から中に引っ込んでクッキーカッターみたいな鋳型を使って効率よく作ることに徹しているのだろう。しかしそれはあくまでカーテンの裏で行われていることで、我々には見えない。しかし見えなくなったら怪しいからそんなことをついつい考えてしまう。 今後回転寿司屋はさらにセミオート化、ロボット化が進んで行くだろう。かつて客の前で握っていた板前が時代とともに厨房の中に消えていった。 時を経て、再び客の前に姿を現すのは板前ロボットではないだろうか。 まるで空港のスーツケースのように一皿ずつ寿司が奥から出てくる光景に、そんな兆しを感じている。

西の国のインスピレーション 1/2

ロシヤ人の友人がいる。 ロシヤといえばボーンスプレマシー。と、本音としては言いたいところだが、それはただのハリウッド映画。もう少し何か違うものと関連させたいが、ロシヤに行ったことがないのでせいぜい挙げるならば歴史に関連することと小説と名所くらいしか知っていることがない。ただ、先に述べた通り、これまでに方々で出会ってきたロシヤ人の友人が何人かいる。 最も古いかの国の友人はオリュガという。彼女の父は公園なんかにある階段にの手すりを製造する仕事が順調だったということでアメリカに留学させてもらっていて、そこで出会った。彼女の母親はハルキ・ムラカミの大ファンでその影響を受けてオリュガもまた村上の作品に随分と詳しかった。 「下手すると決まってあまり金を持っていない男がなぜか複数の女性と関係が成立する話ばかりだと言えなくもないが」 と僕は彼女に言うのだが、僕が思うより奥が深いらしい。ノルウェイの森の英語版をくれた。ただし、10年ほど経つが、まだ読み終えていない。 (西の国のインスピレーション 2/2 につづく)

買える芸術

杉並区、武蔵野市、三鷹市は互いに繋がっているので吉祥寺界隈を移動しているとこれらをまたぎ越える時がある。それぞれが閑静な住宅街といったところはまさに一般的に認識されている通りで、ある意味どこか退屈で(何せ要するに進めど進めど家がたくさん並んでいるから)、ある意味心が落ち着く土地でもある。仕事では賑やかなところに行かないといけないことが多いから。 目線の少し高くなる怪しげな乗り物に乗っています。(「セ」から始まるもので、まぁその乗り物についてはまたいつか書こうかとも思っているのだけど、あまり普及していない趣味的要素の方が強いのでこれからも割愛するかもしれない。)そのせいである日曲がり角を曲がろうとしたら老夫婦が住んでいるお家の居間がチラリと見えて、その部屋の壁にたいそう大きな絵画がかけられていた。絵画、これがなかなか自分では買えない。そんなことを思う。なぜだろう? と言いつつ吉祥寺の画廊によく行っては色々なアーティストの作品を見ている。中でも一点物にはやはり強く惹きつけられるし、画廊に皆さんもいつか行く機会があれば行かれることをお勧めするが、「この人がまだそれほど評価が高くなかった時代のものです」とか、それなりに画廊に置いてる作品にはドラマがある。 ただ、である。 「自分が欲しいと感じる欲求というのは、どこからくるものなのか」、これが自分でわからない。内訳を話すとこういうことだ; 欲しい理由は その絵画を独占したい・・・・という独占欲 その絵画を自慢したい・・・・という自己顕示欲 その絵画の良さを理解してお金を払った・・・という自己満足 なんじゃないか? 手を出そうとすれば(クレジットカードで買おうかなと考えるときこの三つの疑念がより鮮明に浮かび上がる)そんなロクでもない考えが生まれて結局額(フレーム)なんかを手にとっては色々と比べて、気に入った額があれば、額を買って帰る。 なんだか考えれば考えるほど自分が買う、となるとなぜかブレーキがかかる。 アートを買ってしまうとどこかアーティスト性を自分から失ってしまう気がしてしまうのだ。だから買えない。それがどうやら今のところ、自分にとっての絵画のようだ。