我々は時の流れを本質的にどのように感じたいのだろう? 早いと感じたいのか、遅いと感じたいのか? 明日になって欲しくない −−− と思った人がいるとする。 だからと言って、23:59で世界の時が止まることはない。 ただ、時の流れは自分の中に存在する。 「おはよう」とお昼頃に言う人がいる。起きてまもなければその人にとってはまだ一日が始まったばかり。時計の針とは関係ない。 少し話は脱線するが、私は大学のメディア学科にいるためか、学生たちに17時から始まる授業で「おはようございます」と言われることがある。おそらくこれは前述のそれとはまた別物であろう。アッチの方である (小林賢太郎氏の著書「 僕がコントや演劇のために考えていること 」"ちなみに僕たちが夜でも「おはようございます」と言うのは「お早い入りで」と言う意味です。(P.120)")。 それで話を戻して冒頭の問いだ; 私たちは、時間がどのように進むことを欲しているのだろう? 時間はしばし、「相対 (的 / 性)」という表現をされることがある。 相対性理論、と一般的に言われるものも、アインシュタイン自身 「1分 --- 。熱された鉄の上に腰掛ける時と、魅力的な異性と話す時では感じる長さが違ってくる」と解説をつけた。 つまり楽しければあっという間に時間は過ぎ、辛い中では時間の流れはゆっくりに感じると。 photo by gettyimages 皆さんも少しご自身の人生の中での時間の流れを考えてみてくださったら嬉しい。 私は働き始めてからというもの、かなり急き立てられる業種にいるせいで退屈はないが、時間の流れは早すぎると思ってきた。それとも体質なのか、先に話した授業だけでも例にとってみれば、やはり仮に17時に始まって、18時半に終わらなければいけないとどこかで考えていると1時間半は手のひらの砂が指の間をこぼれ落ちるかのごとくどこかへ行ってしまう。 そんなように今も感じる。 けれど近年は少しばかり(なぜか)そんな体感をもったいなく感じ始めたこともあり、実は意図的に時間の流れ方を「中和」させる努力をしている。 それは、ある待ち遠しいことと、何かしら焦らされる要素の両方を予定として同時に持っておくということである。 例えば待ち遠...