私事ながら妻は都内にある某国立大学研究所にて子供の失読症の克服を目的とした研究に従事していて、毎晩研究室に夜遅くまでいるため、帰りの電車の中で僕の更新するこの「新聞」(と勝手に呼ぶもの)が何かしらの時間つぶしになればと思って書き始めた。だがその二日目にして、環八道路の渋滞に巻き込まれたせいもあり今日は妻の帰宅が僕よりも早かったために、発刊早々これはあまり当初の目的を果たしていない。
その妻だが、妻はなぜかよく足を骨折をする。
確か数ヶ月前、1ヶ月ほどかけて完治させた足の指の骨があったはずなのだが、昨日は水泳の授業中にプールに誤って転落しそうになった小学生の一人をとっさに抱きかかえたことで踏ん張った時今度は別の指がおかしく曲がる形になって、結果的に骨折したということだ。
自分が妻の立場であったらどうするだろうなどと考えたら、夫婦といえど夫の僕は妻とでは随分性格が違い、僕には仮に物事がマズイ方向に向かおうとした時でもそれを阻止しようとすることを早々と諦めてしまう節(ふし)があるなと気づいた。
昨日の妻の状況に自分がいたなら、水の中にサメでもいない限り、ぽちゃんと子供がプールに落ちるくらいなら子供にとって落ちてみることくらい別にいいんじゃないかと、きっとその子供がプールサイドでバランスを崩している間に考えてしまうんだからオーソドックスな教育者のメンタリティーとしては不合格かもしれない。
簡単な例を自分に起きた話に限定してここでは話してみると、例えば11歳の時僕はドイツで学校からの帰宅途中自転車で転び、歩道から車道に転倒したのだが、その刹那前方からこっちに来る車が自分の腕を轢くことになるであろうと悟った時、それを阻止しようと頑張ったかというと、そこらへんはあまり努力せず、「もしギブスになったらクラスメイトたちのサインでギブスを埋めてそれを交通事故の記念品にしよう」と次のことを考えていた(そしてそうしたわけだが)。
異国の地で救急車にも乗れたし、病院を見ることもできた(しかもタダで)。ただ肘のあたり一部の感覚が今もない(じゃぁ結局完全にタダということではないかもしれない)。
何かを防ぐことほど、ほどほどにしておいた方が良いものはない。
そう言うと運任せな考え方のように聞こえるかもしれないが、少しだけ僕自身の頭の中の思考を文字にしてみよう;防ぐことから生じる、問題点といったところだ。
何かが起こることを「防ぐ」とその瞬間の前後には変化がない。なぜなら「防ぐ」という動作は、ある状態がある状態でなくなってしまわないようにすることであって、何かを防ぐことにおける成功は何も起こらなかったことであるからだ。この時人間の危機回避能力が発揮される一方で、「そうしなければどうなったのか」ということに関しては当事者は想像してみるしかないが、想像と現実は完全に一致することはなく、むしろ想像と現実は全く違う結果をもたらすかもしれない。
「致命的が故に防ぐ」のか、「防げなくても致命的ではない」のかという検証は「防いだらわからない」。生きる上でこれはちょっとした問題ではないだろうか。
道を歩いていて、青信号が点滅し始めた時、無意識に駆け出すが、これは人間が「赤信号に捕まってしまう」ことを防ごうとするからだろう。しかし一方で僕の友人のI氏なんぞは信号待ちの間にふと言葉を交わしたことをきっかけに知り合うこととなった女性と交際していた。I氏の人生にとっては点滅する信号をそのとき走って渡っていたなら起こらなかった出来事だろう。
僕が考えるには、人が何かを防ごうとするときにイメージできる最悪のシナリオなんて、それほど価値はない。それより人間が想像もつかない物語が生まれることの方が興味深い。
他人にまで奨励することはないだろうが、僕自身はこれからも「回避するために身の上に起こらない出来事」のフタをできるだけ開けていくのだろうと思う。だろうと思うというのも、これは常にとっさの判断だからだ。
そんな時、足の骨を折りながら救ってくれる人が現れるかもしれない。サリンジャーではないが、「そんな崖の下に待ち構えてくれているキャッチャーが世の中には必要」だ。
そして幸いなことは、きっとその足の骨を折った人のためにも別のキャッチャーがちゃんといる。
妻は生徒がプールに落ちることを防ぐことで足の指を折ってしまった。
生徒がズブ濡れになることを防ぐことに成功し、自分の足の指を折ることを防ぐことには成功しなかった。
しかし密かに僕が思うには、足の指を折ることを防ぎ、子供がプールに落ちることは別に面白くもなんともないが、子供がプールに落ちるのを防ぎ、足の骨が年に二回も折れるのは、言ってみれば面白い人生なんじゃないだろうか。
アメリカのコメディなどでは "If it bends, it's funny. If it breaks, it's not funny(曲がることは面白いが折れてしまうと面白くない)"というが、この場合、骨の骨折は bends に相当する。
2017年6月23日(土):今日の世の中の主な出来事
歌舞伎役者市川海老蔵さんの妻小林麻央さんが34歳で亡くなったというニュースが新聞に掲載される。
その妻だが、妻はなぜかよく足を骨折をする。
確か数ヶ月前、1ヶ月ほどかけて完治させた足の指の骨があったはずなのだが、昨日は水泳の授業中にプールに誤って転落しそうになった小学生の一人をとっさに抱きかかえたことで踏ん張った時今度は別の指がおかしく曲がる形になって、結果的に骨折したということだ。
自分が妻の立場であったらどうするだろうなどと考えたら、夫婦といえど夫の僕は妻とでは随分性格が違い、僕には仮に物事がマズイ方向に向かおうとした時でもそれを阻止しようとすることを早々と諦めてしまう節(ふし)があるなと気づいた。
昨日の妻の状況に自分がいたなら、水の中にサメでもいない限り、ぽちゃんと子供がプールに落ちるくらいなら子供にとって落ちてみることくらい別にいいんじゃないかと、きっとその子供がプールサイドでバランスを崩している間に考えてしまうんだからオーソドックスな教育者のメンタリティーとしては不合格かもしれない。
簡単な例を自分に起きた話に限定してここでは話してみると、例えば11歳の時僕はドイツで学校からの帰宅途中自転車で転び、歩道から車道に転倒したのだが、その刹那前方からこっちに来る車が自分の腕を轢くことになるであろうと悟った時、それを阻止しようと頑張ったかというと、そこらへんはあまり努力せず、「もしギブスになったらクラスメイトたちのサインでギブスを埋めてそれを交通事故の記念品にしよう」と次のことを考えていた(そしてそうしたわけだが)。
異国の地で救急車にも乗れたし、病院を見ることもできた(しかもタダで)。ただ肘のあたり一部の感覚が今もない(じゃぁ結局完全にタダということではないかもしれない)。
何かを防ぐことほど、ほどほどにしておいた方が良いものはない。
そう言うと運任せな考え方のように聞こえるかもしれないが、少しだけ僕自身の頭の中の思考を文字にしてみよう;防ぐことから生じる、問題点といったところだ。
何かが起こることを「防ぐ」とその瞬間の前後には変化がない。なぜなら「防ぐ」という動作は、ある状態がある状態でなくなってしまわないようにすることであって、何かを防ぐことにおける成功は何も起こらなかったことであるからだ。この時人間の危機回避能力が発揮される一方で、「そうしなければどうなったのか」ということに関しては当事者は想像してみるしかないが、想像と現実は完全に一致することはなく、むしろ想像と現実は全く違う結果をもたらすかもしれない。
「致命的が故に防ぐ」のか、「防げなくても致命的ではない」のかという検証は「防いだらわからない」。生きる上でこれはちょっとした問題ではないだろうか。
道を歩いていて、青信号が点滅し始めた時、無意識に駆け出すが、これは人間が「赤信号に捕まってしまう」ことを防ごうとするからだろう。しかし一方で僕の友人のI氏なんぞは信号待ちの間にふと言葉を交わしたことをきっかけに知り合うこととなった女性と交際していた。I氏の人生にとっては点滅する信号をそのとき走って渡っていたなら起こらなかった出来事だろう。
僕が考えるには、人が何かを防ごうとするときにイメージできる最悪のシナリオなんて、それほど価値はない。それより人間が想像もつかない物語が生まれることの方が興味深い。
他人にまで奨励することはないだろうが、僕自身はこれからも「回避するために身の上に起こらない出来事」のフタをできるだけ開けていくのだろうと思う。だろうと思うというのも、これは常にとっさの判断だからだ。
そんな時、足の骨を折りながら救ってくれる人が現れるかもしれない。サリンジャーではないが、「そんな崖の下に待ち構えてくれているキャッチャーが世の中には必要」だ。
そして幸いなことは、きっとその足の骨を折った人のためにも別のキャッチャーがちゃんといる。
妻は生徒がプールに落ちることを防ぐことで足の指を折ってしまった。
生徒がズブ濡れになることを防ぐことに成功し、自分の足の指を折ることを防ぐことには成功しなかった。
しかし密かに僕が思うには、足の指を折ることを防ぎ、子供がプールに落ちることは別に面白くもなんともないが、子供がプールに落ちるのを防ぎ、足の骨が年に二回も折れるのは、言ってみれば面白い人生なんじゃないだろうか。
アメリカのコメディなどでは "If it bends, it's funny. If it breaks, it's not funny(曲がることは面白いが折れてしまうと面白くない)"というが、この場合、骨の骨折は bends に相当する。
2017年6月23日(土):今日の世の中の主な出来事
歌舞伎役者市川海老蔵さんの妻小林麻央さんが34歳で亡くなったというニュースが新聞に掲載される。
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