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デザインの妥協に関する問題点

 売りたいモノには価格がある。当然だ。
 しかしたとえば車。300万で売りたいものと500万で売りたいものがある場合、どうやって差をつける?そこにある200万円の「違い」が客に伝わらなければ300万のほうでいい、となる。しかしそれでは500万円のほうは売れまい。高いものが売れた方がいい(一概にメーカーがそう思っていないことは承知だが)。この200万円の価格差に置ける問題点は、「メーカー」という一つの企業がこの価格差の意味性を維持するために300万円のほう、つまり安いほうで「良さの出し惜しみ」をしていることだと僕は思っている。

 そうは言えどそれは一概には言えない。例えばカメラ。こちらの価格帯の違いは例えば外見には現れない。現れないというか、現れにくいのだ。コンピューターも同じだ。iPadなんて、もはやどれが何世代目の何ギガバイトの製品で、値段がいくらかなんて外見からは判断できないではないか。しかし、その価格差には性能的な理由がある。例えば先述した"GB"なる容量が大きい。そしたら自分は写真やビデオなどをたくさん入れたいから、たくさん入るものにしよう、となる。その性能の差に客は差額を払うわけである。
 


しかしそのもののルックスを見た上で買うか買わぬか、どちらにしようと迷うもの、その製品の外見を判断基準にするようなもの;例えば腕時計。そういうものにおいては見た目が買うか買わぬかの要因として大きいことは確かだ。(客がもしただ正確な時間を知りたいだけならば5千円の腕時計だってあるのだから。もっというなら、ケータイでいいではないか)。腕時計を買うとき、人はその時計の性能よりも外見を確実に気にしている。もちろん中にはその価格差はクオーツと自動巻という機能性に関する価格差だと了解する人間もいるだろう。しかし一般的に考えて自動巻のほうが価格が高くなるわけだから、安いクオーツのほうが格好良くてそちらに客が殺到しては自動巻を作る必要性が揺らぐ。だから腕時計においてはクオーツはここら辺でデザインを止めておきましょう、となっているに違いない。(だから当然逆も然り、価格を抑えたいからクオーツで出そうという発想もあるが)

 

 問題は「価格の低いほうの製品は高級な製品のデザインを妥協したものである」場合である。
一人のデザイナー(あるいはチームでも良い)がたどり着けるその時の「最高のデザイン」は、一つだ。であればそのデザインを最も高級な製品に採用すべきだと僕は思うし、そうでなければ悲しい。例えば「最高のデザインは価格の安い腕時計に採用し、高級なほうには・・・そうだな、とりあえず金持ちが喜びそうなものを付け足しておこうか」という会話があったとしたらそれは富裕層が明らかにバカにされている。だからそうではないと思いたい(成金向けの派手なものは別だ)。

 しかし思い返すと陸上競技のスパイクでも野球のグローブでも柔道の帯でも剣道の防具でもそうだ;高いものは美しい。
 日曜大工用の電動工具と、「プロ用」と書かれた職人の使うものものも、価格の差は外見に出ている。だからもうここまで来れば言うまでもないだろう。一流の製品のデザイン担当者は一流で、安価な方をバイトのデザイナーに作らせているのではなく、安いものは「意図的に」ルックスを悪くさせられているのである。

 だから僕は安いものを見たとき怖くなる。最近はもうそこを通り過ぎて、いろいろなメーカーの製品全てが怖い。
 世の中にはいいものも悪いものも、いろんなものがあるわけだが、そのどれもにこれでもかというくらい、「完璧な美しさ」を「そこまで美しくなく」することに、人の手が加えられている気がするからである。

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